三河金田氏の実像
     
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  寛政重修諸家譜と三河金田氏の謎

 寛政重修諸家譜は寛政11年(1799年 )に江戸幕府が編修を開始し大名や旗本から提出記録をもとに文化9年(1812年)に完成した大名や旗本の家譜集である。
将軍家光の命により寛永20年(1643年)に完成した諸大名・旗本の家譜集である寛永諸家系図伝の続集にあたる。
当初寛永諸家系図伝に書き継ぎをすることが主な作業と考えられたが、寛永諸家系図伝に書かれている内容について様々な疑義が生じ、その内容に校閲の筆(重修)を入れざるを得なくなった。書き継ぎだけなら寛政諸家譜となったはずが、校閲の筆(重修)があった経緯から寛政重修諸家譜と呼ばれるようになった。

寛政重修諸家譜の編者は膨大な資料と多くの時間を要して編纂しており、寛政重修諸家譜の評価は高いと言える。
しかし寛永諸家系図伝・金田諸家の家譜との間に微妙な相違があることにより、何故そのようになったかを究明することが家史研究にとって重要な課題なのである。。
  • 大永年中に上総国を去った金田正興が相模国愛甲郡金田郷に住し、後三河国幡豆郡一色村に移りて信忠・清康に仕える。(寛永諸家系図伝・金田諸家の家譜ともに金田郷のことは書かれておらず、寛政重修諸家譜だけに記されたもの)
  • 金田正頼については清康に仕えたとだけ記されている。(金田諸家の家譜では奉勤仕候以外は相知不申候とだけ記されている)
  • 金田正房については広忠に仕え、天文16年(1547年)竹千代の近侍として今川氏のもとに搬送途中、織田信秀と内通した田原城主戸田康光に奪取されてしまう。尾張国に潜伏した正房は織田信秀に殺害される。(金田諸家の家譜でも同様に書かれているが、それ以外の事柄は何も書かれていない
  • 金田正祐については広忠に近習として仕え、天文15年(1546年)三河国上野城合戦に戦死する。22歳。(寛政重修諸家譜・寛永諸家系図伝ともに一致している。金田正祐は年齢を勘案すると金田正頼の子・金田正房の弟と考えるのが妥当
  • 金田諸家の家譜では、金田正祐を正房の次男とし永禄6年(1563年)三河国上野城合戦で戦死したことになっている。19歳。寛政重修諸家譜ではそのことを配慮し、系図では正房の次男とすることで上記天文15年戦死と矛楯する内容になってしまった。祐勝が正祐の弟と系図に書かれているのは誤りで、祐勝は正祐の子供
  • 祐勝については広忠・家康に仕え、慶長7年(1602年)63歳で死去とだけ書かれている。天文9年(1540年)の生まれと推測され、広忠の代には子供で、家康の代になって仕えたと記されるべき。広忠に仕えたとの誤記は系図で正祐を無理に正房の次男としたことが原因と断定できる。
  • 、天文15年(1546年)金田正祐が22歳で戦死、正祐の遺児祐勝は7歳だったと考えるのが妥当。祐勝は元服後家康に仕えたと考えたい。祐勝は家康より2歳年上で、父と考えられる正祐が忠死したことを考えれば、祐勝は家康の代にそれなりの処遇を受けたはずなのに何も書かれていないのは不自然。金田諸家の家譜に秀忠の留守居役と書かれているが、関ヶ原の戦いで勝利した徳川氏が伏見城に家康の生母伝通院が移ったことで、祐勝が留守居役として伏見城で伝通院に仕えたと考えられる。
  • 正勝については家康に仕え、大番・大番組頭・伏見城の城番を勤む。元和元年(1615年)50歳で死去。大番とは家康直属軍に属し、組頭とはその指揮官に昇進し、城番とは城代の補佐になったということになる。時代的には本能寺の変(17歳)・小牧長久手の戦い(19歳)・小田原攻め(25歳)・関ヶ原の戦い(35歳)・大坂冬の陣(49歳)と徳川家康が飛躍した時期で、大番に属して入れば軍功をあげるチャンスに恵まれたはずなのである。寛政重修諸家譜に書かれていなくとも、金田諸家の家譜に軍功など詳細に書かれているはずなのである。正勝の軍功などが系譜に何も書かれていないのが不自然。
  • 正勝については後に正藤と改名したと書かれているが、寛永諸家系図伝には改名のことは書かれていない。何らかの事情で後に正藤と改名したことにしてしまったと考えられる。正辰が自分の後継者と認めている次男に正勝(父の名)を命名したのは不自然。父正勝の存在感を弱める必要があったのではないか。
  • 正末については秀忠に仕えたが、勘気を被り改易となってしまった。(改易となった理由と時期は不明) 
  • 寛永11年(1634年)4月29日将軍家光鷹狩りに正末が「奉行人たちが偏頗な計らいにより罪を受け改易となってしまいました。」と直訴に及んだ。しかし、捕らえられた正末は4日後には処刑されてしまった奉行人とは秀忠の重臣で当時も実力者だった土井利勝と考えられる。
  • 元和9年(1623年)に秀忠が将軍を譲っていることから、 正末が改易処分となり流浪の身となって10年以上の歳月が経っている。鷹狩りの場所で捕らえられ江戸市中まで護送された正末の取り調べは4月30日に開始。将軍家光に詮議した結果死刑が相当と報告されたのが5月2日。死刑が執行されたのは5月3日。10年以上前の改易処分について詮議するには時間が少なすぎるのである。更に囚われの身である正末に対し死刑の執行を急がねばならなかった理由があったのではないか。このことから土井利勝が老中としての権限で死刑を決断し、将軍家光の裁可をとって死刑執行に影響力を及ぼしたと考えられる。将軍家光は実力者である土井利勝の意向を尊重するしかなかったのである。
  • 幕府の支配体制を確立するために尽力してきた老中土井利勝が死刑の執行を急いだことと、直訴した正末を「嘘つき」と断定することで秀忠時代の「金田氏改易」にまで事件が及ばないようにしたことからも、老中土井利勝の慌て振りがうかがわれる。
 寛政重修諸家譜の序文において金田正祐から系譜を引く金田氏は寛永11年(1634年)の金田正末刑死事件で絶え、今ある金田氏は正勝の次男正延・三男正辰が新たにおこした家であることを強調している。 正末刑死事件により三河金田氏が改易され終焉を迎えたと考えるのが妥当なのである。
金田正延・正辰の代以降を三河金田氏と区別するために江戸金田氏又は旗本金田氏と呼ぶ方が相応しいと考えられる。

三河金田氏最後の輝きは金田正辰が大坂夏の陣で軍功を上げた元和元年(1615年)であろう。伏見城にて父正勝同席にて家康から20両を賜い、その後の戦功評議にて下総国千葉郡に500石の所領を賜うことができた。
しかし,同年12月父正勝が病没し、その後兄金田正末が将軍秀忠に改易処分となり金田氏本流は最終的に断絶となってしまうのである。
「金田正末改易」は豊臣氏滅亡と老中土井利勝が中心になって進めた幕府の支配体制確立に起因するのではと推測せざるを得ないのである。
金田正辰以降の家譜に歴代の詳細な記録が残っているのに対し、それ以前の家譜には相知不申候と書かれていることが多い。これは記録が紛失したとかの問題でなく、明らかに三河金田氏の時代を隠蔽するための意図的なものである。当然幕府の意向が反映していると考えるのが自然なのである。

寛永8年(1631年)200石を加増され700石となっていた金田正辰が、その後承応2年(1653年)鉄砲頭に出世するまで20年間不遇の日々を過ごす。そして金田正辰が館林藩主徳川綱吉の家老として仕え、更にその子正勝の代には将軍綱吉の側衆となり、その一族は旗本として幕末まで存続することになるのである。

「三河金田氏の実像」では三河金田氏歴代について研究することで、上記に掲げた三河金田氏の謎について究明していきたい。
 
第一章  松平氏に仕えた金田正興  上総国から三河国に移った金田正興は松平清康に仕えたのであった。
     
第二章   守山崩れと松平広忠  守山崩れで松平清康を殺害され、松平信定に岡崎城の実権を奪われた松平広忠の苦難が金田正房・正祐兄弟との絆を深めたのであった。
     
 第三章  金田正房と金田正祐  金田正祐は三河上野城の戦いで戦死。金田正房は織田信秀に奪われた竹千代を奪回するために尾張国に潜伏するが捕らえられ殺害される。
     
 第四章  金田宗房と金田祐勝  金田正房の遺児である宗房、正祐の遺児である祐勝のそれぞれが歩んだ人生。徳川幕府により公的な記録ばかりか金田氏の家譜からも抹殺された金田祐勝の人生とはいかなるものだったのだろうか。
     
第五章   三河金田氏終焉と将軍家光  大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと徳川幕府の正当性を確保するのに邪魔な金田氏を将軍秀忠の側近は改易処分とした。正末刑死事件の真相を知った将軍家光は金田氏再興を東照宮に誓うのであった。
     
 第六章  将軍綱吉と金田正勝  将軍家光の遺命により館林藩主徳川綱吉の城代家老となった金田正辰。その子金田正勝は城代家老を継承した。更に綱吉が将軍になると側衆として将軍に仕えた。

 

 (注)金田吉時は父から200石を継承。金田正親は父正辰が初代館林藩城代家老として新たに3000石を受けたときに、それまでの父の所領1000石を継承して自立した。
金田正辰次男金田正勝は綱吉神田館にて奏者番のまま父の死後3000石を継承した。館林藩家老を将来継げる格式を継いだものと思われる。
二代目館林藩城代家老となった大久保忠辰が綱吉の怒りを買い追放されたので、父の死後2年で三代目館林藩城代家老となった。
更に綱吉が将軍に就任すると幕臣に戻り側衆として5000石となった。兄正親も1500石に加増された。
寛政重修諸家譜は寛永諸家系図伝に書かれている金田正成を金田正勝(正藤)の外孫と記していながら変更しなかった。年齢的に正辰の弟と考えられる正孝が本来なら正成の代わりに記されるべきと判断し上記系図に記した。