笹子地蔵霊験記
ムササビ金太郎の  ブログ  上総金田氏歴代記
 
◎笹子地蔵の紹介
 住所 神奈川県南足柄市塚原4871番地

笹子地蔵は下記写真のように地蔵堂と周囲の石碑などが建っており、藤和グリーンヒル住宅地の中に位置している。
曹洞宗玉峯山長泉院が管理しており、住宅地の有志により整備され今日に至っている。
笹子地蔵霊験記として笹子地蔵を研究している金田芳明は引っ越して来て30年になるが笹子地蔵が近所にあるのにも関わらずお参りしてこなかった。
「おばあちゃんの原宿」として有名な巣鴨(東京都豊島区)にとげぬき地蔵尊高岩寺がある。
金田家とその一族は江戸時代から続く高岩寺最古の檀家なのである。そのため毎月のように高岩寺に参詣しており、何事もとげぬき地蔵の御利益と考えてきたので、笹子地蔵にお参りする気にはなれなかったからである。

しかし、30年の間に不思議なことを多く経験するうちに、「もしかしたら笹子地蔵様からも守ってもらっているのでは」と思うようになってきた。とげぬき地蔵様にお参りしていることが、同じお地蔵様が縁で笹子地蔵様にも祈りが通じていたような感じがしてきました。
同じ住宅地に住んでいる方々からも「笹子地蔵様に守られている」という意見を多く聞くことで、この住宅地は笹子地蔵のご加護を受けているという思いを強く持つようになりました。
そこで自分なりに笹子地蔵について多くのことを知ろうと努力してみると下記のようなことが判明いたしました。
  • 長泉院に伝わる「悪犬退治と笹子地蔵」という伝説
  • 長泉院の中にひっそりと存在する地域の守護神「金比羅堂」の存在
  • 金比羅堂・笹子地蔵・三竹の御嶽神社を一直線で結ぶレイラインの存在
  • そのレイラインが秩父の三峯神社に達することで、修験道の聖地として秩父とも深く結ばれていたという事実
  • 古事記に出てくる日本武尊伝説で日本武尊が国津神が化身した白鹿と遭遇した場所は笹子地蔵のある場所付近だった可能性が存在すること
上記のことが次第に判明してくると自分お気持ちを整理するために、自分の「ムササビ金太郎ブログ」に笹子地蔵霊験記として連載いたしました。
笹子地蔵を研究した結果、地蔵堂で祀られている鑵主石は秩父の三峯神社と同様に狼を神の使いとして祀っていたものと判断いたしました。悪犬退治に書かれているような人々を苦しめた狼で無く、鎌倉時代までこの地域でひっそり神として祀ってきた狼を鑵主石に封じて供養する意味を込めて笹子地蔵として永きにわたって祀られたきたと推理いたしました。

鎌倉時代以降は天狗様を地域を守護する神として金比羅堂に祀られたのです。笹子地蔵にある石碑群近くの天狗石も天狗伝説により永きにわたって信仰を受けてきました。宝永大噴火で小田原藩領が荒廃すると、僧の姿で夢枕に現れ笹子地蔵お参りに導かれた霊験話が多く伝わり、江戸時代中期以降は天狗石を笹子地蔵としてお参りすることが盛んになったのです。

関東大震災以降の混乱の時代を経て笹子地蔵はすっかり荒廃していたのですが、今日多くの人の努力で写真のように回復してきました。
笹子地蔵は秩父の三峯神社などと繋がる修験道の神様と金毘羅大権現の化身であるお天狗様によって成り立っています。
地蔵堂で鑵主石にお参りし、湧き水近くの笹子地蔵由来碑に手を合わせ天狗石にお参りすることでそれぞれから御利益を受けることができます。
笹子地蔵なのに神様というのは変ですが、仏教的には修験道の神様は地蔵菩薩の化身、天狗様は観音菩薩の化身として考えることで合致いたします。


笹子地蔵全景


地蔵堂の奥にあるのが鑵主石


 笹子地蔵由来碑の右側奥にあるのが天狗石
 
(1)笹子地蔵霊験記をBlog (ムササビ金太郎のブログ) にて公開


笹子地蔵霊験記その1 笹子地蔵の紹介。修験道禁止令が衰退の原因と考えていました。
       
笹子地蔵霊験記その2 笹子地蔵のある足柄地域が古事記の日本武尊東征の話として出ており、更に足柄神社などの日本武尊伝説と照合することで実態の把握に努めた。
       
笹子地蔵霊験記その3 長泉院・笹子地蔵・三竹の御嶽神社が地図上では一直線で結ばれていることから、古代からの聖地を結ぶレイラインの存在として紹介した。
       
笹子地蔵霊験記その4 日本武尊伝説の残る三竹の御嶽神社を紹介。
笹子地蔵霊験記その5 笹子地蔵を管理している長泉院に伝わる「悪犬退治と笹子地蔵」を紹介することで天狗伝説を探求した。
笹子地蔵霊験記その6 大雄山最乗寺は曹洞宗三大祈祷所のひとつで、道了尊として天狗を寺を守護する神として祀っています、他の祈祷所は次の通りです。
妙厳寺 愛知県豊川市豊川(豊川稲荷) 狐
善寶寺 山形県鶴岡市下川関根 龍神
       
笹子地蔵霊験記その7 笹子地蔵にある天狗石を特定。
笹子地蔵霊験記その8 寛永9年(1632年)それまで土塁の城だった小田原城を総石垣の城にする工事が開始しました。寛永10年笹子地蔵周辺にも石垣用の石の採掘が及び天狗石に矢穴が彫られ石割寸前となった。
霊石破壊行為を神が許すはずがなく、小田原藩主稲葉正勝が吐血したことで作業は中止された。寛永11年稲葉正勝が38歳で死ぬと、次期藩主に天狗の祟りが及ぶのを怖れた小田原藩は、天狗石を祀るためのお堂と石垣を建立。
その後の天災でお堂は消失したが石垣は今日まで残り、反りがあることで小田原城の石垣と同じ石垣職人によって作られたことを証明している。
       
笹子地蔵霊験記その9 宝永大噴火で小田原藩領は壊滅的被害被害を受け笹子地蔵周辺も荒廃した。
享保15年に立てられた笹子地蔵由来碑によれば、難病に苦しんだ人が夢に現れた僧の導きで笹子地蔵にお参りしたことで治癒したことが伝わり、多くの人がお参りするようになった。由来碑は天狗石に向かっており、多くの人は天狗石を笹子地蔵としてお参りしてきたことがわかる。
       
笹子地蔵霊験記その10 明治になり神仏分離令や修験禁止令により大きな影響を受け、更に関東大震災以降の混乱の時代に笹子地蔵は衰退し今日に至った。
       
笹子地蔵霊験記その11 長泉院・笹子地蔵・三竹の御嶽神社を地図上で一直線で結ぶレイライン。これを更に延伸していくと秩父の三峯神社に繋がる。笹子地蔵の霊験を調べていくうちに、古事記・日本書紀の日本武尊伝説に対象が及ぶのだった。

 

(2)ヤマトタケル(古事記・日本書紀の相違)
 
 南足柄市は「金太郎伝説の地」として地元住民には足柄山の金太郎のほうが親しまれてきた。
しかし、古事記に出てくるヤマトタケル伝説を研究すると、関東地方でヤマトタケルが立ち寄った場所で、場所を特定できる数少ない地域の一つが南足柄市であることは特筆すべきことなのであります。古代から足柄地方は特別な場所であったことを南足柄市民は誇りに持つべきだと思うのであります。

残念ながら日本書紀において足柄の記述が無いことがヤマトタケルと足柄の結びつきが弱い印象となっている原因なのです。
ヤマトタケルを英雄として伝えるには相応しくない内容になることを避ける為に、日本書紀は足柄坂で起きた出来事を碓日坂・信濃坂という別の場所で起きた出来事にしてしまったと考えられます。
ここでは古事記・日本書紀の真相を探ることで謎を解明したいと思います。
 

大雄山駅前の金太郎像

各事項については日本武尊・弟橘媛を使用
古事記  日本書紀 
倭建命  日本武尊
弟橘比売命  弟橘媛
 相模国から上総国へ海を渡るときに 海神の起こした荒波で船が進まなくなった。后の弟橘媛が夫の身代わりになって入水したので波は穏やかになり船は進むことが出来た。
 7日後に后の櫛が流れ着いたので陵に収めた  記述なし
 蝦夷地を平定し帰路についた 蝦夷地を平定しその首魁どもを捕虜にして帰路についた。 
足柄坂の麓につき食事をしていると、足柄土着の神が白鹿に化身して日本武尊の前に現れたので、野蒜の端を投げつけて打ち殺した。  常陸国を経て甲斐国に至った。
(左記事項は信濃坂の項に書かれている)
日本武尊は足柄坂の頂(足柄峠付近)に登り、亡き弟橘媛を偲び三度深い嘆息を漏らし「ああ!妻よ」と嘆いた。
このことで東国をアヅマと呼ぶようになった。
 (左記事項は碓日坂の項に書かれている)
 甲斐国酒折に仮の宮殿を作ってしばらく滞在した。酒折が連歌発祥の地として書かれている。 
  甲斐国から武蔵国・上野国を通って碓日坂に至った。
 碓日坂で日本武尊は亡き弟橘媛を偲び三度深い嘆息を洩らし「ああ!妻よ」と嘆いた。
このことで東国をアヅマと呼ぶようになった。
 甲斐国から信濃国を経て信濃坂を経て美濃国、そして木曽川を伝わって尾張国に戻った。
信濃坂は現在の神坂峠(下を中央自動車道恵那山トンネルが通ってる)で、信濃坂に住む神を平定したとだけ書かれている。
信濃坂にて悪い神が白鹿に化けて日本武尊の前に立った。悪い魂胆を見抜いた日本武尊は野蒜を白鹿の目に命中させ殺した。それまで信濃坂を通る者は悪い神の邪気に当たって病気になったが、野蒜を体に塗ることで病気にならなくなった。
  信濃坂で悪い神を退治した日本武尊は道に迷ってしまった。すると白い狗(狼)が現れ道案内をしたので美濃国に出ることができた。

 
◎上記のように古事記と日本書紀を照合することで隠された謎が解明できるはずである。 
  • 相模国から上総国へ海を渡るときに 海神の起こした荒波で船が進まなくなった原因について、日本書紀では日本武尊が「これはちっぽけな海だ。立って跳んでも渡れるくらいだ。」という軽率な言葉を発したのが原因と書かれている。
  • 古事記に書かれている足柄坂の事項は日本書紀では削除され、「ああ!妻よ」と嘆いたのは碓日坂にされ、白い鹿を殺したのは信濃・美濃の境にある信濃坂での出来事とされた。
  • 日本書紀では新たに武蔵国・上野国を経由して信濃国に入ったこととされ古事記に記された経由地が変更された。
 後から発行された日本書紀の編者は古事記の内容をよく吟味したうえで編集したはずである。
上記のように古事記の内容と明らかに異なったのには何らかの意図があったと考えられる。
足柄坂の麓につき食事をしていると、足柄土着の神が白鹿に化身して日本武尊の前に現れたので、野蒜の端を投げつけて打ち殺した。 信濃坂にて悪い神が白鹿に化けて日本武尊の前に立った。悪い魂胆を見抜いた日本武尊は野蒜を白鹿の目に命中させ殺した。
日本書紀の編者は日本武尊が土着の神の化身である白鹿を殺したことをどう表記するか悩んだのであった。
その結果、場所を信濃国と美濃国の境にあり信濃坂に移し、旅人を苦しめていた悪い神が鹿に化けたのを日本武尊が殺した話に作り変えたのであった。
そこで古事記の足柄坂を尊重して日本書紀の内容を修正すると下記のようになる。
足柄坂の麓につき食事をしていると、足柄土着の神が白鹿に化身して日本武尊の前に現れたので、野蒜の端を投げつけて打ち殺した。
土地の神の怒りを受けた日本武尊一行は道に迷ってしまいました。すると白い狗(狼)が現れ道案内をしたので足柄峠に行くことができた。
◎日本武尊は足柄土着の神(国津神)が道案内のために白鹿を使いとしてよこしたのを、悪い神が何らかの魂胆で鹿に化けて現れたものと勘違いしたために白鹿を殺してしまうのであった。
野蒜の端が目に当たったぐらいで鹿に化身した神が殺されるはずは無いが、白い鹿は国津神のお使い(眷属)として日本武尊に近づいたために命を落としてしまったのである。
白い鹿を殺された足柄土着の神(国津神)の怒りはすさまじいもので、日本武尊一行は窮地に追い込まれまることになる。日本武尊一行は国津神に進路を妨害され、迷路に迷い込んだような状態になり足柄峠まで進むことが出来なくなってしまったのであります。
日本書紀では走水の海を渡る前に日本武尊が「これはちっぽけな海だ。立って跳んでも渡れるくらいだ。」という軽率な言葉を発したのが海神の怒りに触れた原因と書かれています。
今回も日本武尊の軽率な行動が足柄土着の神(国津神)を怒らせてたことで進退窮まる事態になったのです。
 (3)弟橘媛と白い狼
 日本武尊は走水の海で后の弟橘媛が自分の身代わりになって入水したことを思い出し涙を流した。
 相模国から上総国へ海を渡るときに 海神の起こした荒波で船が進まなくなった。后の弟橘媛が夫の身代わりになって入水することを申し出た
「荒波で船が進まなくなったのは海神の祟りによるものでしょう。私が夫の身代わりとなって入水し、海神の御心をおなだめ申してまいります。」
波は穏やかになり船は進むことが出来た。
今は亡き弟橘媛にむかって深い嘆息を洩らし「ああ!妻よ」と悲痛な叫びをしたことで、亡くなった後に神霊となった弟橘媛に日本武尊の危機を知らせることができたのです。
そして神霊となった弟橘姫の働きかけにより足柄土着の神(国津神)の御心をなだめることに成功いたしました。
足柄土着の神(国津神)は新たに白い狼をお使い(眷属)として差し向け日本武尊一行を足柄峠まで道案内したことで一行は危機を脱することができました。

日本武尊はここでも妻であった弟橘媛の神霊に助けてもらったのですが、日本武尊を英雄として後世に伝える意図からは外れる為に古事記・日本書紀はともに真相を隠そうとしたとしたと考えられます。
しかし、いくら真相を隠しても足柄坂の出来事は近隣の多摩・秩父に伝わり今日まで狼を神のお使い(眷属)として信仰されてきたことからも隠しきれなかったことは明白なのです。
前述しました金比羅堂・笹子地蔵・三竹の御嶽神社を一直線で結ぶレイラインは秩父の三峯神社に達しており、足柄と多摩秩父の神々はネットワークで結ばれているのです。歴史は文書の改ざんによって欺くことができますが、神々を欺くことはできないのであります。

 (4)足柄坂での日本武尊と弟橘姫愛の物語を抹殺した日本書紀

 ●足柄坂での夫婦愛を語るには古事記に出てくる記述が基本です。現在の関東地方・東北地方を平定した日本武尊が足柄坂を越えて甲斐国へ向かう時に今は亡き妻である弟橘姫を偲んで「ああ!妻よ」と嘆いたと記されている。
 
 日本武尊は足柄坂の頂(足柄峠付近)に登り、亡き弟橘媛を偲び三度深い嘆息を漏らし「ああ!妻よ」と嘆いた。
このことで東国をアヅマと呼ぶようになった。

日本武尊が亡き弟橘媛を偲び、三度深い嘆息を漏らし「ああ!妻よ」と嘆いた。
このことで東国をアヅマと呼ぶようになったと書かれたのは古事記が最初です。
 古事記に書かれているだけでも、現在の南足柄市民は古代の英雄である日本武尊が亡き妻を偲んだ故事について、郷土の誇りとして伝えていく責務があるはずです。
 ●日本書紀に書かれている信濃坂に係わる記述で気が付くのは、編者が信濃国を丁寧に紹介し日本武尊が高い山に踏み入ったとだけ書かれている。
直接信濃坂とは書かれていないが、道に迷った後に美濃国に出ることができたと書かれていることで、日本武尊が踏み入った高い山が信濃坂であると特定できるように記されている。
日本書紀の日本武尊に係わる記載で信濃国のように地理について詳しく書かれたものはなく、更に北アルプスの登山道を日本武尊が登っていくような印象の文章は、編者が何らかの意図で創作した文章であることが明らかなのである。
本来なら日本武尊の信濃国での活躍は「信濃国から美濃国に向かう途中の信濃坂にて、旅人や住民を苦しめているる悪い神を平定した」という内容なのに、日本武尊が信濃国の多方面で活躍したような印象を意図した書き方なのである。
  
 日本武尊は信濃国へ進み入った。この国は山は高く、谷は深く、青々とした山脈が幾重にも取り巻き-----馬も進むことができない。それにもかかわらず日本武尊は霞に分け入り、霧を押し分けて、高い山に踏み入った。
 山を登りつめた場所で空腹になり山中で食事をした。この時山の神(信濃坂の悪い神)が悪意を持って白い鹿に化けて近づいて来た。危険を感じた日本武尊は蒜を鹿の目に命中させ退治した。すると日本武尊一行は道に迷い進退窮まる状況に陥ったが、白い狗(狼)が現われ日本武尊一行を道案内をしたので、一行は美濃国に出ることが出来た。
 信濃坂は現在でも中央自動車道の恵那山トンネルが地下を通過する交通の要所で、名前も神坂峠と呼ばれるようになった。
そこは古来より東山道でも屈指の難所として旅人に恐れられ荒ぶる神が存在すると信じられていた場所なのである。

足柄坂でも信濃坂でも同じことですが、土地の神が化けた白い鹿を殺しても神本体が殺されることにはならないのです。逆に土地の神の怒りに触れた日本武尊一行は道に迷ってしまったのです。
古事記では日本武尊一行が道に迷ったことや白い狼が道案内をしたことが省かれてしまいましたが、足柄神社の伝説や秩父三峯神社に伝わる白い狼の伝説から推測すると、古事記に本来ならば記載されるべき事項だったはずなのです。
信濃坂での出来事を足柄坂の出来事として日本書紀の内容を修正すると下記のようになります。これが足柄坂における日本武尊伝説の真相だと確信しています。
 
 足柄坂の麓につき食事をしていると、足柄土着の神が白鹿に化身して日本武尊の前に現れたので、野蒜の端を投げつけて打ち殺した。
土地の神の怒りを受けた日本武尊一行は道に迷ってしまいました。すると白い狗(狼)が現れ道案内をしたので足柄峠に行くことができた。
 

 (5)「笹子地蔵と悪犬伝説」と眷属である白い狼の関係
 笹子地蔵霊験記その5で「笹子地蔵と悪犬伝説」を紹介しているが、鎌倉時代に人々を苦しめていた山犬(狼)を金比羅大権現の分身である黄色大権現が、気絶させ鑵主石という石に変えた伝説が残っている。
鑵主石は笹子地蔵の地蔵堂の裏にあると言われ、地蔵堂をお参りすると鑵主石にもお参りすることになるのです。
退治された悪犬をお参りするのに違和感を感じてきましたが、ヤマトタケル伝説から受け継がれた眷属である白い狼だったとしたら納得できます。

笹子地蔵は古代より神聖な場所として信仰の対象だったのですが、古事記・日本書紀によって隠された謎によって真実が伝わらなかったような気がします。
ヤマトタケル伝説の残る御嶽神社(南足柄市三竹) ・不思議な伝説の残る笹子地蔵・長泉院(ともに南足柄市塚原)などを地図上で繋ぐと秩父の三峯神社まで一直線で繋がります。更にそれは群馬県の碓氷郡にまで達するのです。
古代からの聖地はレイラインで結ばれていると世界的に言われていますが、ヤマトタケル伝説が伝わる聖地はレイラインで結ばれているのです。

地蔵堂が眷属である白い狼を祀っているのなら、笹子地蔵由来碑の奥にある天狗石こそが金比羅大権現の分身である天狗の姿をした黄色大権現が空に飛んで行った神聖な石なのである。
最乗寺は天狗である道了尊を寺の守護神として祀っています。そして道了尊は十一面観音菩薩の化身として考えられています。
笹子地蔵は地蔵堂で眷属である白い狼を祀り、笹子地蔵由来碑で天狗様を祀っています。
しかし仏教的には地蔵堂で地蔵菩薩を祀り、笹子地蔵由来碑で観音菩薩を祀っているとも考えられます。
より多くの方々が笹子地蔵をお参りし、御利益を受けれることを祈っております。