| ●将軍家綱の代になって金田正辰は栄進した 
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                    | 金田正辰は将軍家綱の代になった慶安4年に55歳で、次男の金田正勝は部屋住みで29歳だった。 700石の旗本ではあるがそれまで不遇だった人生を歩んできた印象なのである。将軍交代は二人の人生に大きな転機をもたらすのであった。
 
 承応2年(1653年)金田正辰が鉄砲頭となり、明暦2年(1656年)に300石加増され1000石になった。
 金田正勝も明暦3年(1657年)35歳で将軍家綱に初めて御目見し、万治2年(1659年)に37歳で小姓組に列した。
 寛文元年(1661年)徳川綱吉が25万石の館林藩主になり、金田正辰が館林城に赴き城代家老となり禄高3000石となった。
 館林藩以降のことは次章で詳しく検証したい。
 
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                    | ☆家光死去後綱吉が舘林藩主になるまでの10年を表にしてみた。城代家老や奏者番という要職につくため、正辰・正勝父子にとって10年間は準備期間だったと考えられる。 | 
                  
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                          | 徳川綱吉 | 金田正辰 |  
                          | 慶安4年(1651年)徳松15万石を拝領する。父家光死去。 |  |  
                          | 承応2年(1653年)徳松元服し綱吉と称する。 | 承応2年(1653年)金田正辰が鉄砲頭となる。57歳 |  
                          |  | 明暦2年(1656年)300石加増され1000石になる。60歳 |  
                          | 寛文元年(1661年)綱吉舘林城主として25万石の藩主になる。 | 寛文元年(1661年)金田正辰舘林城代として3000石拝領。65歳 従来の所領1000石は嫡男金田正親が旗本として継承。
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                          |  | 寛文2年(1662年)次男金田正勝が舘林藩の神田館にて奏者番に任じられ300石拝領。 |  
                          |  | 寛文3年(1663年金田正辰病没。 |  
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                    | ●将軍家光の老中松平信綱・阿部忠秋に対して残した遺命 
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                    | 将軍家綱が11歳で将軍に就任したことから、政治の実権を握っていた老中松平信綱・阿部忠秋が金田正辰を館林藩城代家老に出世させたと考えられる。 前将軍家光が遺命として老中松平信綱・阿部忠秋に金田正辰の栄進を託したからこそ実現した事なのである。
 
                       慶安3年(1650年)病身となった徳川家光は世嗣家綱を西の丸に移し次期将軍である家綱の治政について老中と協議を重ねた。 
                      家綱は10歳の少年なので万一に備える為に、長松(後の綱重)7歳・徳松(後の綱吉)5歳を大名に封じられることが決まった。後の甲府藩主徳川綱重・館林藩主徳川綱吉となり共に25万石の大名となる。
                      当然家老などには譜代大名の有望な子弟が選ばれるのだが、家光が金田正辰を綱吉の家老に選任するという発案に、老中松平信綱・阿部忠秋は驚かされた。金田正辰は700石の旗本で兄が直訴事件で刑死している窓際族だったのである。
                      老中松平信綱・阿部忠秋は御側/大目付中根正盛から将軍家光の真意を知ることができた。同年9月に江戸に参上した堺の豪商金田屋伝右衛門とも面談し金田氏歴代が徳川家に忠義を尽した事実を正確に把握した。
                      慶安4年(1651年)将軍家光が没すると、老中松平信綱・阿部忠秋は、前将軍家光の遺命として金田正辰を上記のような経緯で栄進させたのであった。政治の実権を掌握している老中二人が、前将軍家光の遺命により行う人事に誰も意義を唱えることは出来なかったのである。
                     
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                    | ●前将軍家光が金田正辰を栄進させ旗本金田氏の再興を図るために遺命を残したのは下記理由による。 
 
                      徳川家康が母伝通院の求めに応じて弟松平康元の家老として金田宗房を任じ、三方ヶ原の戦いで金田宗房は忠死を遂げた。家光の代になり松平康元の系譜を継ぐ小諸藩5万石を世嗣断絶を理由に改易にし、金田宗房の孫である家老金田房能は浪人となった。
                      将軍家光の代に幕法違反を理由に諸大名の多くをを改易にしたために大量の浪人を生み社会不安を招いた。その結果由井小雪の乱が起きるなど社会問題が生じていたのであった。ある意味で将軍家光は晩年追い詰められていたといえる。
                      
                      
                      祖父家康を敬愛する将軍家光にとって、家康に忠義をつくした金田祐勝の系譜をひく金田正末を処刑し、小諸藩家老金田房能を浪人に追い込んだことは、祖父家康に対していたたまれない思いであった。
                      徳川家康は長年の功績に報いるため金田祐勝を伏見城に向かえ武士に戻し、祐勝の子である金田正勝を5000石の禄高を与えた。そして大阪の陣で金田備前守
                      正勝は伏見城城番の要職に就き、城代松平定勝の配下で豊臣氏の政治活動・軍事活動に対する諜報活動に専念した。しかし、豊臣氏が滅びると邪魔者は消せとばかりに正勝は暗殺され、正勝の子正末は隠謀により改易となった。金田正末が無実を訴えたのに、見殺しにしてしまったことは不本意なことであった。
                      旗本金田氏の再興を側衆/大目付中根正盛と相談した結果、老中松平信綱・阿部忠秋に託すことにし遺命を残した。
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