三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第四章  金田宗房と金田祐勝その2      


第一章 第二章 第三章
 
 寛政重修諸家譜や金田系図では、金田正房を父として宗房・正祐・祐勝を兄弟として記されている。
第三章で検証したが金田正房・正祐は兄弟で、ともに主君松平広忠の代に忠死を遂げている。主君広忠も二人を追うように若くして亡くなった。
金田諸家に伝わる系図が意図的に事実と違った系図にするために、金田正房・宗房親子の年齢を不詳とされ、更に天文15年に忠死した金田正祐の没年を永禄6年とし後に墓まで建て替えたという念の入れようなのである。
いずれも徳川家康の代に黒子として活躍した金田祐勝・正勝親子を歴史上抹殺しようとした幕府の意向が影響したと考えられる。
第四章では祐勝・正勝親子の隠された真実を解明することに全力を注ぎ、三方ヶ原の戦いで忠死した金田宗房と関連づけながらすすめていきたい。


金田正興 金田正頼 金田正房  ― 金田宗房  金田良房  
         
       └  金田正祐  ―  金田祐勝  ―  金田正勝(正藤)  
                   
               └  金田屋常安  

 
 金田諸家譜では金田正祐は永禄6年(1563年)に19歳で戦死し、その死を悲しんだ徳川家康が屋敷跡に金田寺安養院を創建したと記されており、延享3年(1741年)には正祐の墓碑を建て替え、側面に永禄6年三州中芝で戦死19歳と刻むなどしている。
しかし、下記理由により事実と相違しており永く家史研究の謎であった 。
  • 19歳で戦死だと24歳だった祐勝より年下になってしまい系図上と矛盾している。
  • 寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜が金田正祐の戦死を天文15年と記されており、金田諸家譜では無理に永禄6年のことにしている印象。
  • 金田諸家譜では「相知不申候」が目立ち、何か意図的に隠している印象。
旗本金田氏家史研究によって真相を究明した結果、黒子に徹し徳川家康の天下取りに貢献したにも係わらず、歴史の闇に消された金田祐勝の人生に起因していることが判明した。
これから金田祐勝の歩んだ人生を探求し、歴史の闇に消された金田氏歴代の無念な思いを少しでも晴らせたらと願っています。

 
 (4)金田祐勝の実像(天文15年~永禄6年に歩んだ若き日々-その1)
 
 天文15年(1546年)父正祐が忠死を遂げた時に7歳だった金田祐勝が24歳で岡崎城を去るまで歩んだ人生を考察する。
 幼くして父を失った金田祐勝だが、いずれ松平元康の近臣として活躍できる条件は下記に列記した通り整っていたのである。
  • 桓武平氏の名門千葉氏の支流出身という家柄の良さは松平氏の家来でも抜きんでていた。
  • 祖父金田正頼は下総国佐倉城主千葉昌胤正室の従兄弟だったことなど、駿河国守護今川義元から一目置かれていたのであった。
  • 父金田正祐は今川義元の支援を受けた松平広忠に忠勤を励んだので、広忠は忠死に悲嘆し金田寺を創建したのであった。
  • 伯父金田正房は竹千代を駿府に送る一行を率いたが、戸田弾正康光の裏切りで織田信秀に竹千代とともに熱田で拘束された。そして竹千代脱出を図ったが、捕縛後に処刑され首を晒されたのであった。
  • 松平氏の家来の中でも金田祐勝・金田宗房は成長するにつれ、駿府の今川氏の家来衆からも好意的な扱いを受けた。後に金田正末刑死事件後に不遇だった金田正辰を支えたのも、今川氏の家来出身の旗本長谷川讃岐守正吉(義父)であったことから、100年後も今川家旧臣との良好な関係は続いていたのであった。
  • 金田正祐は近臣として松平広忠に仕え、正室の於大の方(竹千代の母)からも信頼されていた。 天文13年(1543年)離縁となった於大の方を刈谷城に届ける役目を担った金田正祐とその一行を無事帰らせるために、於大の方は刈谷領手前で岡崎衆と別れて刈谷に戻った逸話が残っている。
  • 更に金田正房が織田信秀の人質になった竹千代を脱出させようとして殺害された話を聞いて、その忠義に感激したと伝わっている。於大の方が亡き金田正祐の遺児祐勝に対しも極めて好意的だったことは確かであり、金田祐勝も人生を通じて於大の方を敬い母のように慕う気持ちだったはずである。 慶長7年11月57歳だった金田祐勝は10月に亡くなった伝通院(於大の方)に殉死する道を選んだ要因の一つだった。祐勝は伏見城で伝通院に仕えた僅か1年の時間は大切な思い出になった。
 
 上記の条件を満たす金田祐勝は少年に成長すると、駿府の竹千代の近侍に加わったことは間違いない。

竹千代は祖母である華陽院(出家して源応尼・生母於大の方の母)のもとで育てられたので、8歳から19歳を駿府で過ごした駿府での生活は恵まれた少年時代だったといえる。
竹千代には鳥居元忠など同年代の近侍が仕え、今川義元の軍師太原雪斎を学問の師として教養を高めることができた。
しかし、父を幼くして亡くし生き別れとなった母である於大の方を慕う気持ちはあっても、ひたすら隠すしかない立場にあった。

そこで、近侍に加わった金田祐勝は華陽院が坂部城主久松俊勝の妻となった於大の方に便りなどを送るときに、荷物運びの付き人として使者に加わり、親子間の心の交流に大きな貢献を果たすことになったと想像される。
竹千代は母於大の方に直接会った金田祐勝から、母の印象・竹千代に対する思い・異父兄弟たちの近況などを聴くことで、自分は一人では無いという強い思いを持つことができた。
 
 更に金田祐勝を語る上で特筆することがある。下記系図参照。
父金田正祐を7歳で失った金田祐勝は母親の実家である服部氏一族の影響を強く受けて育ったのである。更に服部氏一族の出身地である伊賀国を旅することで、伊賀国が畿内各地と繋がっている地理上の利点などの見識を深めることができたのである。

祖父金田正頼・父金田正祐は伊賀忍者を配下にしてきたので、金田祐勝の周囲に伊賀忍者がいた可能性が高い。
武士なので忍術などの専門技術は必要ないが、あくまで素養として忍者たちから多くのことを学ぶことはできたのである。
竹千代が駿府での生活が始まった天文18年(1549年)、金田祐勝は10歳・服部半蔵正成は8歳。もしかしたら、服部半蔵正成も駿府の竹千代の近侍に加わった可能性があるかもしれない。
そして後に服部家の当主になる従兄弟の服部半蔵正成とともに、徳川家康の天下取りに諜報活動を通じて貢献することになるのである。

 
 
 


 
 (5)金田祐勝の実像(桶狭間の戦い以後人生が暗転する)
 
永禄3年(1560年)織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで勝利し、駿河今川家は当主義元を失い、衰退の道を辿ることになる。

一般には徳川家康は今川氏から自立し、織田信長と同盟し戦国大名として飛躍していく人生の分水嶺となった出来事とされている。
かって織田信秀と敵対した松平清康・広忠の代から仕え、今川氏との同盟のもとで忠義を尽した父祖を持つ金田祐勝・宗房にとって、人生を暗転する出来事だったのである。
(3)でも述べたが、織田信長と松平家康が清洲同盟を結ぶことで、家康は同盟に支障のある人物を排除するようになるのである。
歴史観も変更され、織田氏の刺客によって暗殺された清康・広忠は、家臣によって暗殺されたとされ今日に至っている。
後に武田氏に内通したと織田信長に疑われた正室築山殿・嫡男信康を殺害したことからも首尾一貫している。

家康の近臣として忠義に励むことを願っていた金田祐勝・金田宗房は、今川氏との関係が深い人物とされ指名解雇となったのであった。
家康は二人を近臣としておくことで、織田信長に疑われることを恐れたのである。
ここで二人を救ったのが家康の実母於大の方であった可能性が高い。
夫久松俊勝との子松平康元(上ノ郷城主・家康の異父弟)の家老に金田宗房を迎えることを、於大の方が懇請し家康が応じたとされている。武士としての金田氏嫡流は金田宗房が継承することになる。

金田祐勝はどうなったか、永禄6年から行方不明となってしまうのである。
金田家譜で金田正祐の没年とされる永禄6年と重なるのである。
永禄6年(1563年)から慶長7年(1602年)まで金田祐勝は40年間どのような人生を歩んだのかは不明であった。
これからその謎解きをしていくことにする。

 
 (6)金田祐勝の実像(堺の商人に転身)
 
 永禄6年(1563年)徳川家康の家臣から浪人となった金田祐勝は岡崎城を去り、伊賀国を目指すのであった。
従兄弟の服部半蔵正成も同行し、服部一族の支援を受けて与えられた任務の入念な準備作業を始めるのであった。
於大の方の発案と考えられるが、京都に茶屋四郎次郎を派遣し、堺に金田惣八郎祐勝を派遣することで畿内を中心とする情報収集活動に専念させることの重要性に徳川家は気づいていたのであった。
多くの戦国大名は自らの勢力拡大と領国経営に専念している時に、京都や堺に入ってくる情報や物資に注目したことが、後の徳川家康を天下取りへ飛躍させた要因だったはずである。

茶屋四郎次郎清延は信濃国の武士中島氏出身で、大永年中(1521年~1527年)に先代が京都で呉服商を営んだとされているが、「大永年中」は松平清康の代にあたり、服部氏・金田氏とともに中島氏も他国から清康を慕って仕えた武士であることを示す暗号として「大永年中」を使用したのではないか。三河金田氏初代金田正興が上総国から移ったのが大永年中のこととされたのも、「大永年中」を暗号と解釈する理解が容易なのである。
  • 伊賀国で商人として活動するための知識・人脈・人材・活動資金などを準備した金田惣八郎祐勝は、堺に向かい活動拠点を探し、 河内国金田村(堺市北区金岡町周辺)が拠点として選ばれた。
  • 河内国金田村(かなたむら-現在の堺市北区金岡町周辺)を拠点としたのは、鋳物や鍛冶など金田村の産品を扱えることができ、古代からの官道で堺と大和を結ぶ竹内街道に接しているなど交通の要衝としての利点が大きかった。
  • 堺の宿院川端町に店舗を構えるようになると、金田屋(かなたや)という屋号で町衆に加わり活動範囲が拡がった。
  • 畿内で商売をするのに、桓武平氏の名門千葉氏の支流出身という家柄の良さが役に立ったと考えられる。
 ◎堺の商人となった目的は徳川家の出先機関として諜報活動をするためである
 
 清洲同盟を結んだ徳川家康にとって父祖の代から忠勤を励んできた金田祐勝を家臣から外すことは不本意なことであった。
そこで母の於大の方と協議した結果、国際貿易により富を貯えた堺を拠点として諜報活動をすることを金田祐勝に命じたのであった。

その為には商人として創業しなければならず、更に行動力・情報収集力・商才などの要件を満たす必要があったのである。
母方の親族である服部半蔵の一族の協力を得て、伊賀国で能力を高め知識を深める努力をしたのである。
更に配下になる忍者を従えて伊賀国を出発し、何らかの手蔓を頼って堺周辺の金田村(カナタ)に拠点を確保した。
諜報活動する為の資金は徳川家からの拠出されたと考えられるが、金田村の地産品の販売などで商売も潤うようになると資金力を確保できるようになったと想像される。
堺は全国の商品・情報が集まってくるとともに南蛮貿易による輸入品などを扱っており、徳川家康は金田祐勝が送ってくる商品情報によって研ぎ澄まされた感覚を養うことができたのである。

元亀元年(1570年)織田信長が松井友閉を堺政所として派遣し、自らの傘下となっていた代官今井宗久とともに堺の直轄地化を進めた。
長篠の戦いで織田信長が用いた鉄砲3000丁のうち2500丁は堺製で、織田信長の天下取りを堺は軍事面・経済面で支えたのであった。金田祐勝の諜報活動は織田信長の動向を知ることも重要な役目となった。。

 
 (7)金田祐勝が堺の商人になった事を主張する根拠
 
 金田祐勝は徳川家康より僅かに年上で関ヶ原の戦いで徳川家康の覇権が確立されてから間もなく亡くなった。金田家譜や寛政重修諸家譜などにおいてどのような生涯だったのかは不明だったのである。
しかし家史研究により次第に真実が明らかにになってきたのである。
  • 父金田正祐が服部半蔵保長の娘婿で、母や従兄弟の服部半蔵正成の影響を受け伊賀忍者と密接な関係があった。
  • 家康の父松平広忠は今川義元の支援を得て織田信秀に対抗し、広忠に忠義を尽した父祖親族だったが、桶狭間の戦い以後織田信長と同盟を家康が結ぶと、親今川派と見られた金田祐勝は 徳川家に居場所が無かった。
  • 上総国勝見城主金田左衛門太夫信吉より五代宗房の倅を祖とする堺の豪商金田屋常安という人物が謎を解くキーパーソンとして浮上。
 元亀3年(1573年)三方ヶ原の戦いで戦死した金田靭負宗房の遺児が、堺の商人に引き取られ金田常安になったと由緒書から読み取れるのである。「引き取った商人こそ金田祐勝だったのではないか」という直感が働いた。
宗房の遺児である金田良房(当時2歳)は主君松平康元(家康の異父弟)に育てられ、康元の嫡男松平忠良(大垣藩5万石)に家老として仕えることになる。金田良房の系譜を引く金田諸家には金田常安の記録が残っていないのである。

このようなことから、金田屋の初代新八郎は金田惣八郎祐勝が商人になって改名したもの。金田常安は実は金田祐勝の子だったが、堺で諜報活動をしていた金田祐勝の存在を、将軍秀忠の代に歴史上抹殺しようとする幕府の意向に沿い宗房の倅ということになったと考えられる。

戦前に発行された堺市史に戦災で失われた貴重な歴史資料が掲載されている。
七巻の常安寺と五巻の惣年寄由緒書(金田駒之輔)について、ここでは要約して紹介する。全文は後で記載事項を検証する。
 ◎参考資料 堺市史  七巻 常安寺

常安寺心光山と號し、堺市堺区区熊野町東5-1-12にあり、淨土宗知恩院派の末寺。
【沿革】
往昔
心光山觀音寺と號し、塔頭八坊を有する大伽藍であつたが、退轉して慶長中には唯纔に本坊觀音寺と、殆ど名目丈けの塔頭白庭菴を存するばかりであつた。
慶長十二年
融譽淨圓を重興開山とし豊臣氏の遺臣金田常安觀音寺及び白庭菴を合せて一寺を建立し、始めて常安寺と號し、元和焼失後、同二年常安の嫡男政守再興して今日に至つた。


 ◎参考資料 堺市史  五巻 資料編第二 惣年寄由緒書 嘉永6年 金田駒之助

上総国勝見城主金田左衛門太夫信吉より五代金田靭負宗房の倅。
桓武平氏良文流金田頼次を祖とする金田氏の末裔である金田靭負宗房は軍功有り、三河国山中法蔵寺(岡崎市本宿町)に葬られる。
金田正祐も軍功あり、三河国安養院金田寺に葬られる。

(金田屋初代)新八郎
元亀年中に現在の堺市堺区宿院町の川之端に商業活動の為移り住んだ。名を金田治右衛門と改める。

二代 治右衛門(常安)
堺は摂津・和泉の国境を基準に、北本郷・北端郷・南本郷・南端郷の4区分に分かれ、それらを四辻と称していた。
二代治右衛門は南本郷の大年寄りを勤めその後剃髪する。
慶長十二年父の遺命を受けて上記常安寺を建立した。二代治右衛門は寺が造成されると金田常安と名乗ったので、寺号も常安寺と称した。

由緒書は三代目以降も続くが永くなるのでここでは省略。