三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第四章  金田宗房と金田祐勝その6  戻る       


第一章 第二章 第三章
 
 寛政重修諸家譜や金田系図では、金田正房を父として宗房・正祐・祐勝を兄弟として記されている。
第三章で検証したが金田正房・正祐は兄弟で、ともに主君松平広忠の代に忠死を遂げている。主君広忠も二人を追うように若くして亡くなった。
金田諸家に伝わる系図が意図的に事実と違った系図にするために、金田正房・宗房親子の年齢を不詳とされ、更に天文15年に忠死した金田正祐の没年を永禄6年とし後に墓まで建て替えたという念の入れようなのである。
いずれも徳川家康の代に黒子として活躍した金田祐勝・正勝親子を歴史上抹殺しようとした幕府の意向が影響したと考えられる。
第四章では祐勝・正勝親子の隠された真実を解明することに全力を注ぎ、三方ヶ原の戦いで忠死した金田宗房と関連づけながらすすめていきたい。。


金田正興 金田正頼 金田正房  ― 金田宗房  金田良房  
         
       └  金田正祐  ―  金田祐勝  ―  金田正勝(正藤)  
                   
               └  金田屋常安  

 
 金田屋治右衛門として堺の商人となったが、実体は主君徳川家康の為の諜報活動に励んだ人生であった。 関ヶ原の戦いで徳川家康の覇権が確立すると、金田祐勝は武士に戻り伏見城にて嫡子正勝(正藤)とともに旗本として家康に仕える。
2年後金田祐勝は57歳で没し、37歳の正勝(正藤)が惣八郎正勝(正藤)として旗本金田氏の当主となる。

 
 (12)金田正祐の系譜
 
 松平広忠の代に忠死した金田惣八郎正祐の系譜は、祐勝の嫡男惣八郎正勝(正藤)が旗本として継承する。
堺の豪商金田屋を継承した祐勝の次男金田常安(二代目金田屋治右衛門)か商人として分離し、正祐の系譜は旗本の金田氏と商人の金田氏に分かれることになる。
 金田祐勝は息子たちを旗本と商人に分離し、自らの経歴を闇に消し去ることで、堺での諜報活動を葬り去ることはできたと確信していたに違いない。
大御所徳川家康は祐勝の気持ちを理解していたので、祐勝の没後に旗本金田氏・堺の金田屋をともに今までの功労に報いるように将軍秀忠に口添えしてくれていた。
しかし、二代将軍秀忠と土井利勝を中心とする重臣たちは、金田祐勝の歴史上の抹殺だけでは不十分だとの認識であったのである。
家康没後の旗本金田氏に暗雲が垂れ込めていたのである。
  • 前項でも書かれているが、三方ヶ原の戦いで忠死した金田靭負宗房の遺児を金田屋の初代にすることで、金田正祐の系譜から外れることにより金田屋は生き残ることができた。
  • 大阪の陣で豊臣氏が滅亡すると、間もなく金田正勝(正藤)は病没し、家督を継いだ金田正末は秀忠の勘気に触れたという理由で改易となってしまう。残った正末の弟である正延・正辰は幕府から冷遇された。正勝(正藤) は病没でなく暗殺された可能性が高い。
  • 正勝(正藤)の死や正末の改易は幕府の隠謀によるもので、将軍秀忠は堺の御用商人金田屋は優遇するが、僅かな例外を除いて旗本金田氏の存在を否定したのであった。
将軍秀忠と土井利勝を中心とする重臣たちの隠謀により、金田祐勝が徳川家のために堺で諜報活動をしていたことが葬り去る為に、金田正祐から祐勝へと続く系譜を名実ともに排除してしまったのである。
次章以降で苦難を乗り越え旗本金田氏が復活するが、金田正祐の系譜を否定された影響は今日でも大きく、家史研究は困難を極めることになった。

 
 
 


 
 (13)金田正勝(正藤)の人物像
 
金田正勝(正藤)について特筆すべき事項は名前のことである。
寛永諸家系図伝には正勝となっているのが、金田家譜では正藤、寛政重修諸家譜では始め正勝・後に正藤と改めると記されている。
  • 金田家中興の祖金田正辰は父の名前正勝を二男に与えたことで、家史研究で五代将軍徳川綱吉に側衆として仕えた金田遠江守正勝の存在感が大きくなり、結果として家譜の中で金田正勝(正藤)の存在感が薄くする効果を狙ったと考えられる。
  • 正勝を系図上の別名正藤としたのも家譜の中で存在感を薄く する効果を狙ったものである。
  • 高岩寺を菩提寺にする金田諸家のうち、金田正孝家の過去帳に初代を金田庄助正辰とし父は金田備前守正治と記してあった。家史研究を始めるまでは全くの謎であったが、ご先祖様が子孫に残した謎解きの暗号だったのである。
  • 上記(金田宗房と金田祐勝関連)系図に書かれてるが服部半蔵保長の娘婿金田庄之助は金田正祐を指している。庄助とは庄之助のことで、庄助正辰と過去帳に書くことにより、正祐の系譜を継ぐ正辰の意味だったのである。
  • 金田正末は正勝(正藤)の嫡男なので惣八郎正行と称したはずで、改易となった為に系図上の別名正末が用いられた。正藤も正勝の系図上の別名として使われており、系図上正治を正勝の別名として使っても違和感は無く、上記過去帳は金田備前守正勝と称し3000石以上の禄高を有していたことを暗示していたのだ。
  • 堺の金田祐勝は家康の近臣として仕えた従兄弟の服部半蔵正成と諜報活動のネットワークを築いたが、服部半蔵正成が8000石を有し服部石見守正成を称したことを勘案すると、金田備前守正勝は5000石だったような気がする。後に舘林藩主徳川綱吉が五代将軍に任じられ、城代家老金田遠江守正勝が側衆として将軍に仕えたが、禄高を5000石にしたのは祖父の禄高への拘りだったのかもしれない。
  • 金田家譜の正勝(正藤)の履歴に大番・在番などの記述があるが、家康の父広忠の近臣として仕えた家柄で、家康の母伝通院からも特別視されたことを勘案すると、祐勝・正勝親子が武将だったら譜代大名になれたはずである。寛政重修諸家譜で金田正勝(正藤) は大坂の陣で伏見城の番をつとむと記されてるが、伏見城の番とは城番を指し城代松平定勝(家康の異父弟)を支える重要な役職で、豊臣氏に対する諜報活動を担った可能性が高い。
  • 家康の家来は戦場で戦功をあげることを競ったが、祐勝・正勝親子は徳川家康の天下取りに必要な機密情報を知り得る立場だったのが禍して、二代将軍秀忠によって歴史の闇に消されてしまった。
  • 金田正祐の系譜を無理やり正房の系譜に入れ込み系図を捏造したり、正勝を正藤と別名を用いたり、禄高・役職など重要事項を家譜から削除するなどしたことは、旗本金田氏復活のために努力した証だったのである。そのことは次章以降で取り上げる。

 ◎以上名前だけで金田正勝(正藤)を検証しただけでも、金田正勝(正藤)の真実の姿が次第に判明してきた。
孫の金田遠江守正勝は館林藩主徳川綱吉に城代家老として永く仕え、側衆として五代将軍綱吉に仕えたのに5000石では物足りない感じがしていた。
五代将軍綱吉から8000石を打診された金田遠江守正勝は、祖父正勝(正藤)が5000石だったことを勘案し、5000石に執着したと推理することで納得できた。
五代将軍綱吉に小姓として仕えた正勝の三男金田周防守正明が新たに3000石を拝領したのは、そのような背景によるものである。

金田正勝(正藤)は慶長5年(1600年)から伏見城で徳川家康に仕えた。その後家康は大御所として駿府城に移ると、伏見城城番として城代松平定勝(家康の異父弟)を支える立場になる。
この頃には金田備前守正勝と称し5000石を拝領していた。
元和元年(1615年)豊臣氏が滅びた日に服部正就が行方不明になり、12月に金田正勝も死去するが、どちらも二代将軍秀忠の隠謀だった可能性が高い。邪魔者として消されたのであった。
もう一度金田正勝(正藤)の人物像を語るために、金田備前守正勝の履歴としてまとめてみた。
 
 金田備前守正勝の履歴
  • 永禄6年(1566年)金田祐勝の嫡男として生まれる。父祐勝は河内国金田(カナタ)村を拠点とし、金田屋(カナタヤ)新八郎として商売に従事しながら、徳川家康に堺に集まってくる政治経済の情報を送るなどの諜報活動をしていた。
  • 元亀年中(1570年~1573年)金田屋は堺に店を構える。宿院の川端町で店を構えていたことから、宿院の土居川沿いに位置してたと推測される。出店場所は現在の堺市堺区宿院町東4丁あたりと思われます。
  • 川端町に店を構えてから金田祐勝は金田治右衛門と称し、より一層の事業の拡大と有力商人との接触を目指したと考えられる。配下の伊賀忍者を手代や取引業者に扮させ
  • 金田祐勝が堺の商人となったのはあくまで徳川家康の為に諜報活動をすることだったが、堺が織田信長の支配下になると織田信長や家臣の動静を逐次家康に報告するなど、より高度の諜報活動が求められるようになる。金田正勝も成長するにつけ、諜報活動に従事するようになる。
  • 天正10年(1582年)本能寺の変が起きた時、正勝17歳であった。世の中の激変を体感するのであった。
  • 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し覇権を確立すると、父祐勝とともに家康に伏見城に招かれ旗本の身分になった。
  • 慶長7年(1602年)金田祐勝没す享年54歳。その後徳川家康が駿府に移ると伏見城は家康の異父弟松平定勝が城代になり、金田正勝は城番として城代を支える立場になる。
  • 元和元年(1615年)伏見城城番として禄高5000石 備前守の地位を得ていた金田正勝だったが、12月50歳で没する。嫡男正行は家督継承が幕府に認められるまで待機していたところ、将軍秀忠の勘気に触れたという理由で改易処分になった。
  • 正勝の死と改易は将軍秀忠と土井利勝を中心とする重臣たちの隠謀だった可能性が高い。嫡男正行は浪人となり角左衛門正末と名乗り流浪の身となったイメージだが、10年以上経った将軍家光の時代に直訴事件を起すまで、どこで何をしていたかは不明。

 
 
 (12)金田祐勝・正勝親子と東本願寺
 
 寛政重修諸家譜で金田正勝(正藤)は京都東本願寺の慈教寺に葬ると記されている。
堺市史の由緒書に記載されている金田常安の欄で、「亡父の遺命により浄土宗常安寺を建立した」と記されていることと対比することで、以下のことが推測できる。第四章で金田常安の亡父は金田祐勝であることが判明した結果、東本願寺との関係にも及ぶのである。
  • 金田祐勝は東本願寺(真宗大谷派)に宗旨替えをしていた。
  • 父正祐が浄土宗の寺である安養院金田寺に葬られていることから、次男の常安には浄土宗の寺を建立し菩提寺にすることを遺命として残した。
  • 金田正勝は伏見城に出仕し京都に屋敷を構えていたので、東本願寺の慈教寺を菩提寺とし葬られた。
  • 慈教寺は東本願寺の塔頭と推測されるが、現在京都には存在しないので詳細は不明。
  • 金田祐勝の存命中は教如上人が大津御坊(真宗大谷派大津別院)を拠点としており、祐勝の没年が東本願寺創建の年などを考慮すると東本願寺はまだ存在していないのです。しかし教如上人に属する門徒だったので便宜的に東本願寺(真宗大谷派)の門徒だったと表現します。
  • 金田祐勝は教如上人と深い繋がりがあったので嫡男正勝には東本願寺(真宗大谷派)の門徒を継承させ、次男常安には父祖依頼の浄土宗の信徒を継承させたのである。
 
 (13)金田祐勝(金田屋治右衛門)と教如上人の接点
 
 堺の商人金田屋治右衛門が教如上人が出会う機会はどこだったのだろうか。
実は千利休の茶会の可能性が高いのである。堺の商人金田屋にとって豊臣秀吉政権の実力者千利休は雲の人のようなイメージだが、堺の商人仲間を呼ぶプライベートな茶会もあったはずである。
千利休は茶会を開くときに茶頭に教如上人をもってくるほど、千利休は教如上人と親密な関係だったのである。
金田屋治右衛門が千利休を介して教如上人と出会い、時期は不明だが本願寺の門徒になることで教如上人に近づいていったのである。
 
 
 豊臣秀吉の政権は豊臣秀長・千利休の派閥・石田三成の派閥という二つの派閥ののバランスで成り立っていました。千利休にとって徳川家康が背後にいる金田屋治右衛門の存在は、政治力を強くする為に茶会に招いて親しくする必要があったのかもしれません。
しかし天正19年(1591年)豊臣秀長が病没すると間もなく千利休が秀吉に切腹を命じられ自害。派閥のバランスが崩れたのです。

文禄2年(1593年)本願寺門主だった教如上人は弟の准如に本願寺門主を譲り退隠させられた。
これには千利休と親しかった教如上人を石田三成が快く思っていなかったことに起因すると考えられている。
教如上人は退隠後も教如派の門徒に影響力を及していた。次に教如上人と徳川家康の接近について語りたい。
  • 慶長3年(1598年)豊臣秀吉が没すると教如上人は徳川家康に接近していきます。
  • 慶長5年(1600年)5月近江国大津に教如上人が大津御坊(現在の大津別院)を建立。
  • 同年7月教如上人小山評定が行われた下野国小山へ出発。教如上人は西軍が決起した畿内から逃れるとともに、西軍の情勢を家康に直接伝えることが出来たと思われる。その後9月まで安全な場所に身を潜めていたはずである。
  • 同年9月15日関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、9月20日教如上人は大津御坊で徳川家康を迎え入れています。
  • 慶長9年(1602年)徳川家康は教如上人に烏丸六条の寺地を寄進し、ここに現在の東本願寺の伽藍が建立された。
 

東本願寺御影堂
 金田祐勝は豊臣秀吉の没後に教如上人と徳川家康の親交を手伝っていたことは間違いない。
更に小山へ出発した教如上人に随行し、家康との会談に同席し教如上人の情報提供を補佐したと思われる。
その後、金田祐勝は関西方面に戻り西軍の動向を探るため諜報活動に専念したのであった。
教如上人は安全な場所に待避してもらうが、教如派門徒の全面協力を得て関西方面での金田祐勝による諜報活動は大きな成果を生んだはずである。徳川家康が教如上人に対して深い感謝の気持ちと敬意の気持ちを込めて寺地の寄進をしその後も東本願寺発展に寄与したことは間違いない。

金田祐勝の子孫であるホームページ管理人が、生まれて初めての一人旅で京都につき真っ先に行ったのが東本願寺だった。
夕方観光案内所に行って旅館を紹介してもらったら、祇園の白梅という料理旅館だった。
大学生にしては随分贅沢な旅行をしたと反省したことを記憶しているが、400年経っても先祖と東本願寺の絆が子孫に影響しているような気がしてならない。
 
 
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